日本ローカーボ食研究会

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床屋

床屋

名古屋逓信病院 中村 了 記

  人は動物の一種である。
“動”物の一種であるから、やはり“動いて”ちょうどバランスがとれるようにできている。いわゆる生活習慣病にしても、動く量が減ったことが大いに影響していると考えられるし、昨今問題となっている認知症の予防にも、もっとも有効な手段の一つが“運動”であることは、多くの研究結果が示してくれている。
さて、急に下世話な話で申しわけないが、人が動物の一種であることの名残(?)として、全身各所に“毛”が生えていることも挙げられるであろう。人は、長い歴史の中で衣食住を工夫してきたが、その“衣”が発達したおかげで体毛の多くは退化したと考えられる。しかしながら、頭部は、常に露出しているためか、あるいは、人を人たらしめている“脳”が格納されているからか、全身で最も豊富に毛が生えている場所(個人差はともかくとして)である。そして、人の体において、髪の毛ほどスピーディーに成長する毛は、他にはなかろうと思う。
そんなわけで、髪の毛というものは、定期的に切断処理、つまり、散髪してもらう必要がある。したがって、散髪してもらうところである “床屋”は、当然、地球上で人が住んでいる場所にはどこでもあるもの、と思っていた。しかしながら、わが長男(当時、高校生)、数年、瑞士国(俗にいうスイス)で生活していたが、その間、めったに床屋らしきところに出くわさなかったと言うものだから、なんとも驚いた。(まったく無いわけでもないらしい。)では、どうしていたのかと聞くと、高校の友人同士でお互いに散髪しあっていた、というのである。どうやら、床屋というのは世界中どこでも等しく市民権を得ているモノではないらしい。急に興味津々となり、少しばかり調べてみた。
すると、どうやら鎌倉時代の1268年に、あの大化の改新で有名な藤原鎌足の子孫である藤原晴基が、宝刀の国外流出の危機に対処するよう中央政府から命を受けて、当時、元寇に備えて武士が集結していた下関に向かった、というのが事の発端だったらしい。折しも、下関には、髪結いをする新羅人が多数いたようで、晴基は親子でこれを学び、晴基の子、藤原采女亮政之が、ついには亀山八幡宮裏の中之町に、武士を相手に髪結所を開いた。これが、日本における床屋第一号ということになっている。(石碑も残っている)何が何のきっかけになるのか、ほんとにわからないものだ。
そもそも、髪結いをなぜ“床屋”と呼んだのか?これには諸説あるようだが、この采女亮政之の店には床の間があって、そこに亀山天皇を祀る祭壇と藤原家の掛け軸があったことから、“床の間がある店”→”床屋“と呼ばれるようになった、とも言われている。一方で、江戸時代に街中で移動可能な店を開いたり、あるいは、商売をするためだけの仕事専用の店を構えたりすることがあったようであるが、このような店は簡易な“床”を設けていたことから“床店”と呼ばれていたという。床店で営業する“髪結い”を“髪結い床”と呼び、“髪結い床”の末尾に“屋”が付いて“床屋”となった、との説も有力らしい。
それにしても、床屋第一号店は、物珍しさも手伝って、大勢の武士で賑わっていたにちがいないし、江戸時代の床屋は、雑談をしたり囲碁をしたり、サロンのような交流の場であったとも言われている。その流れをひいてか、床屋のご主人というものは、ほぼ例外なくおしゃべりな人が多いし、情報通が多い。先方としては、髪を切られているだけでは退屈だろうから・・・ということで、サービス精神で話しかけてくれているのだろうけれども、当方としては、髪を整えてもらいながらゆっくりリラックスしたい・・・などと思いつつ行くものだから、そのギャップの大きさによっては、かえって疲れて帰ってきた、ということにもなりかねない。
私は、ここ最近、自宅から自転車でものの2~3分のところにある床屋さんに通い詰めている。それ以前は、今の家に引越してきて以来、歩いて1分くらいの床屋さんに通っていたのだが、そのご子息が独立して少しばかり離れたところに床屋さんを開業なさった。ある時、いつもどおり床屋さんに行ったら、ちょっと遠くになるけれども、息子が床屋を開業したものだから、差支えなければ、そちらに行ってやってもらえないか?と言われた。親心である。床屋のご子息にも散髪してもらったことはこれまでにもあり、感じの良い人柄であったし、なによりも程よい会話量の人であった。自転車でものの2~3分のところなので、言うほど遠いわけでもなく、申し出を受け入れることにした。
以来、もう10年以上たった。
先日も散髪にでかけ、そのとき、若主人(註:元々の床屋のご主人のご子息)と電子書籍の話をすることになった。というのも、若主人は昨今、自宅にある本や漫画を電子書籍にするようになった、という話になったからだった。なんでも、奥さんに本や漫画が邪魔だ、と言われたのだそうだ。たしかに、電子書籍にすれば場所はとらない。しかし、“漫画は電子書籍にしても気にならないけれど、小説は紙のままの方がいいんですよね・・・”と若主人はおっしゃった。なるほど、なんとなく同感だったが、しかし、なぜそういう感覚がするのか、すぐには理由がわからなかった。しかし、会話を進めるうちに、漫画は、視覚中心に情報を得ているのに対して、小説は、その内容の様々な状況を想像しつつ、それと同時に紙の臭いやページをめくる感覚を楽しんで、いわば感性で情報を得ているようなところがあることに気が付いた。漫画においても、そういった感覚がないわけではないが、やはり漫画家の絵の綺麗さ、格好よさ、目から入ってくるインパクトがメインである。小説などは、書棚の奥から引っ張り出してくると、その微かな香りや手の感触から、当時の情景や小説のあらすじなどが一気に蘇って、全身を包んでくれるのである。
若主人との会話によって、自分の中の漠然とした何ものかが、整理整頓され、言語化されていった。
床屋には、こういった効能もある。それゆえ、お気に入りの床屋を見つけると、とても他の店にうつる気にはならないものだ。

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