投稿日時: 2013/05/02 20:55:00
灰本 元記
―その1 導入期―
ローカーボ(糖質制限食)の話ばかりだと疲れるので、今回はたわいのない無駄話に徹してみる。この研究会とは無縁の大腸カメラを題材にして私の技術習得体験を綴ってみた。
私のことを知らない方々はもしかして糖尿病やメタボの専門医と思っているかもしれないが、それは間違っている。専門は?と聞かれると開業内科と答えることにしている。それでは実態が分からないという方々には、私の得意な順に、癌の診断、高血圧>漢方、臨床心理>糖尿病、大腸内視鏡と言うかも知れない。一番最後に異質な大腸内視鏡という技術が付け足してある。消化器内科や内視鏡専門医ならわざわざ主張する必要もないのだが、私は消化器内科には所属していないので、大腸内視鏡はほとんど独学である。
内視鏡が独学で出来るわけがないのだが、その基礎には昔専門としていた臨床病理の背景がある。今でも胃と大腸の生検所見は私が鏡検して病理診断している。胃カメラの技術は開業前の約3年間の病院努めと開業前に愛知県がんセンターで半年くらい研修して会得した。当時の春日井には胃内視鏡を扱える開業医は2人しかいなかったので、たくさんの患者さんが集まってきた。しかし、大腸内視鏡はほとんど誰からも教えてもらっていない。沖縄の中頭病院在職中に千葉の水島先生、ニューヨークの新谷先生のデモを数時間見たことがあって、胃カメラのように大腸カメラを入れる人たちだなーと感動したのを覚えている。中頭病院ではせいぜい60人ほど入れてみて、まったく才能がないことを自覚してそれで辞めてしまった。
ところが23年前に開業、その一年目が終わる頃ある中年女性患者で失敗をしてしまった。当時の私はアメリカのrecommendationをそのまま踏襲して、S状結腸までは内視鏡、その先は痛がれば無理をせずに注腸透視を行っていた。ご存じのように注腸では回腸にバリウムが流れたときS状結腸とバリウムが重なってしまう。その患者は肉眼的血便で来院してSigmoid scopy+注腸を行った。S状-下行結腸移行部で痛がったのでそこで止めて注腸としたが、上記のような理由でS状結腸癌を見落としてしまった。幸いにも3ヶ月後再び肉眼的血便で来院、今では伝説となった北野寛先生(名古屋市中区御園座ビルで平成2年頃に開業)に大腸内視鏡を入れてもらい、S状結腸癌の診断、がんセンターで手術、今でもお元気で高血圧の治療を当院で受けておられる。
私は観念して盲腸まで内視鏡を患者が痛がらずに入れる方法を独学で習得することに決めた。当時の私は中国へ研修に出かけたこともあるほど中医学や生薬に熱中していたので、それほど時間が取れないし、当時の名古屋にはわざわざ見学に行くほどの名人は北野先生をおいていなかった。当時の北野先生は5,000例の平均挿入時間が4分40秒という記録的な数字を持っておられ、名古屋より西で彼ほどの名人はいなかった。この検査では素早く入れることはすすなわち痛みが少ない。痛くない大腸カメラの名人という評判を聞きつけて九州から彼の大腸内視鏡を受けに来ていた患者も多かった。
今となっては隔世の間があるが、当時の大腸内視鏡は今の大画面で見られるデジタルではなく光学内視鏡であって、小さなブラインダーからきわめて狭い視野からのぞくだけなので、勉強にはなりはしないし、北野先生と私の外来の休みが同じで見学には行けなかった。仕方がないので、自ら実験台になって大腸内視鏡を北野先生に毎年入れてもらうことから始めた。そして毎日の臨床では、今から思えば患者にはたいへんご迷惑をかけてしまったが、患者が痛がらないような最も柔らかくて細径の大腸ファイバーへ変更して技術の習得を開始した。
これから先20年間にわたって汗と糞混じりと涙の歴史が始まった。目的は患者が痛がらないように短時間で盲腸まで入れるの技術習得である。この検査では挿入時間が長ければ長いほど、術者が無駄にファイバーを押している。無駄に押せば患者は必ず痛む。私は毎週の1~2日の診療前の8時30分頃から9時30分まで3例の大腸カメラを済ませて、その後外来で高血圧、糖尿病、癌、心身症などの外来を始める。つまり永遠のアマチュアである。大腸カメラのプロになるつもりなどさらさらない。このブログは、せいぜい年間250例程度の大腸カメラを専門としていない内科医がどのように技術を磨いていったかの歴史がテーマであって、年間1,000例もこなす専門医のそれとはまったく違う。そして結果として専門医と同じくらいの技術に到達することが出来たのはどのような工夫があったのか、それがこのブログの核心である。